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セブンのネット評を読んだら「ジョン・ドゥはハンニバル・レクター博士にゃ劣る」ってのが多かった。と言うわけで今回は「レクターvsジョン・ドゥ」をやってみたい。なんだか「エイリアンvsプレデター」みたいだ。う〜ん、小学生と変わらんな。

レクター

ジョン・ドゥ

■印象
レクター モンスター的。人間を超えている。
ジョン  普通に見える男が一番怖い、というパターン。

■他者とのコミニケーション能力
レクター 極めて高い。人の心を見抜き、入り込み、操れる。人に惚れることも。
ジョン  低い。孤独。無職かも。

■社会の見方
レクター 芸術が好き。人生が好き。社会が好き。人間も大好物。
ジョン  世を呪い、人を呪う。腐った社会を変えたい。

■自分の人生について
レクター 人生をエンジョイし、可能なことは実行していく。
ジョン  消えて無くなりたい。その前に偉大なことをしたい。

■自分の犯罪を社会の中でどう位置付けるか
レクター 人生をエンジョイする過程で発生した生活のヒトコマ。
ジョン  自分の作品によって社会に影響を与えたい。

ジョン・ドゥはレクター博士に対抗するために差別化して創られた犯人像のようだ。そのアイデアが「普通の男」。犯罪は異常だけど犯人は普通って一番コワくねぇ?ってノリだ。観客に伝わっているかは疑問だけど、サマーセットはジョン・ドゥを狂人扱いしていない描写や、ジョン・ドゥの弁護士が精神異常を取り引きに使ったり、最後の車中でのやり取りでも「私が狂人だったら安心かい?」ってセリフによって「ジョン・ドゥ=普通の男」を演出している。ただ、やっぱり狂ってルように見えるよね〜。

セブンの舞台には、キリスト教があり、近代経済システムがあり、人間がいる。これらは機能衝突を起こしているがフリーズしたからといって生活自体は止まらず、未解決のトラブルも先送りされ蓄積される。その中で彼らも私たちも生きている。そのため「この狂った世界をリセットしよう」という犯罪者が生まれてくる。デ・ニーロの「タクシードライバー」もそんなニュアンスだったよね?

(危険な言い方だがシステムのエラーを報告(修正ではない)するプログラムだ。そんな風に考えるのはテロリストの思う壷だ!という雰囲気がオウムや9/11以降強いが、社会が被害者の死を無駄にしたくないなら考えてもいいんじゃないか?読売の新米記者が先輩記者に「なぜ被害者ではなく犠牲者と書くんですか?」って聞いたら、犠牲=サクリファイスって意味なんだと叱られたって話をコラムで読んだコトがある)

そう考えればジョン・ドゥは社会が(ある程度)健康的なら犯罪者にならないかも? だが、レクター博士は素敵な環境でも、不愉快な環境でもやるべきことはやるんだ男。つまり超単純にいえば、良い社会ならジョン・ドゥの発生は防げるが、レクターの発生は防げない。悪い社会ではジョン・ドゥもレクターも発生する。義理と人情溢れる世界を築いてかないとね。(まぁ、なにが良き社会かはおいおい考えるとしてさ)

セブン VS 羊たちの沈黙 〜 デヴィッド・フィンチャー VS ジョナサン・デミへ続く

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