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今回はジョン・ドゥの自首から衝撃のラストまで。あのラストがなぜ衝撃的なのか考えてみる。

セブン/ジョン・ドゥの自首

まずジョン・ドゥの自首のシーン。

「そこの刑事ッ!」のセリフはなぜか真似したくなる。吹き替えが良いからか?

そこから車中でのジョン・ドゥの語り。

「人々は理解しようとしないかもしれない。
 しかしこの作品を見て人々は考えるだろう。この行動の意味を」


セブン/車中のジョン・ドゥ

そして映画誌に残る衝撃のラストシーン。手錠をかけられ足も不自由な男と銃を持った2人の刑事との対決が、なぜ衝撃なのか?普通のアクション映画なら犯人が主人公にただ撃ち殺されるシーンで観客に緊張感を与えることなんかできない。しかし観客はジョン・ドゥの行動の意味を考えている最中なのだ。

その手がかりになるのが「God」という言葉。7つの大罪に関する殺人なので映画中も再三でてくる。ジョン・ドゥの部屋にも十字架と聖書があり、娼婦を殺させられた客も口にしている。そして、ラストにはミルズ刑事も大声で呼んでいる。ジョン・ドゥが根拠にしているのは、おそらく十戒を授けたヤハウェ的な裁きの神。ミルズが呼んだのは「汝の敵を愛せ」といったキリスト的な許しの神。つまり、旧約聖書と新約聖書の戦いであり、神のイメージのズレが人々を苦しめている、とも読める映画かも。…が、こればかりは日本で育った私には解らない。(キリストとは「仲間を殺した奴を殺すのが善の時代」に「仲間を殺した奴を許すのが善」という戦術の革命をもたらした人間でもある。それは同胞を捨てよ、の意味でもある。)

セブン/ミルズの決断

この映画が絶望的なのは、ミルズがジョン・ドゥを撃ち殺すことが最良の手だということだ。=ジョン・ドゥには最良の手を打ち続けても勝てないということ。そして私達「観客」は、ミルズが撃たないなんて結末を期待もしてないし、許容もできない。そしてミルズがジョン・ドゥを撃つことで、この連続殺人事件はジョン・ドゥの犯罪であることを超えて、人類の犯罪として認知され、人間の限界や定義を再定義する事件となった。これがサマセットが「撃てば奴の勝ちだ」のセリフの意味だ。

「ヘミングウェイがこう言ってた。『人生は素晴らしい。戦う価値がある』
 後の部分には賛成だ」


さて、事件は最悪の結末を迎えたが、サマセット刑事の胸には虚無にも似た小さな炎が燃えはじめる。この炎の理由を考えてみたい。それは絶望の中を生きる力だからだ。

サマーセットがミルズに「奴を殺せば奴の勝ちだ」とつぶやくシーンは、私に「オイディプスの悲劇」を連想させた。ギリシャ神話のエピソードで「父を殺し母を犯す」と予言された王子が、その運命を避けよう避けようとするが結局、予言の通りになる話だ。「人間とはそんなもンだ。輪から逃れることなど出来んのだよ」というギリシャ神話時代での人間の定義の話だ。その定義を「変えよう。越えよう」とするのが恐らくキリスト教なのだろう。

「7つの大罪」について私なりに(悪魔的に)考えてみた。人間も動物の一種であるが、人間だけに備わっている力がある。「理力」だ。もっとピッタリの名前がありそうだが、とりあえず感受性とか思考力とかいう脳の中にある力だ。言語を重要なエンジンとしているが言語を超えた力でもある。この理力のおかげで、人間は世界の美しさや面白さをタップリと感じられる。タップリと考えることができ、タップリと賛美もできる。この力は欲望を強化することもできるし、遠ざけることもできる。そこで「7つの大罪」を人生を肯定的なものにする言葉に置き換えて考えてみる。例えば【強欲→望み】【高慢→誇り】【怠惰→マッタリ】とか。こう考え直してみると「7つの大罪」と「生きるときに感じたり、必要だったりする潤い」は似ているのだ!<ちょい強引?

生きる楽しみと7つの大罪は似ている。でもヤッパリ違う。では、どこが? 私は単純に「活き活き」しているかどうか?だと思う。暗いのは力強くても大罪に繋がりやすい、朗らかなのが単純に楽園に近い、んじゃない?「望み」を持つのは言語を持っている人間の宿命だし、楽しいことだ。しかし「望み」が当の本人から離れて自己回転・自己増殖し、本人の方を奴隷にする場合もある。そんなとき「望み」は「強欲」になる。だから禁欲的な宗教では「望み」を禁止したり、十分に監視したのだろう。(哲学は観察って感じかな)

サマセットは、ジョン・ドゥの一連の犯罪を通して次々と「活き活き」が封印される様を見せつけれた。「怠惰」の殺人が完成することで「マッタリ」は封印され、「高慢」の殺人が完成することで「誇り」は封印される。それは人間の理力の封印でもある。人間はどんどん物事を考えられなくなり、物事を感じなくなる。近所の殺人事件にも目の前の夫婦喧嘩の末に撃ち殺された死体からも何も感じなくなっていく。動物化や自動人形化の促進だ。こんな状況で、なぜサマセットは人生に戦う価値を再発見したのだろう? サマセットの年にならないと解らないことかもしれないが、セブンという映画を強引に、希望的に誤読して「とりあえずの答え」を書いとこうと思う。(読み込みが甘いな〜という人はコメントお願い。年取ってから青い自分にツッコミコメントを入れるという使い方もできそう?)

人間は、人間だけが持っている力を全てはく奪されても生きることができる。戦うことができる。それは生物だからだ。そして生きている限り、ジョン・ドゥが施した封印のいくつかを解除することもできる。不吉な予言や悲しい定義なんか飛び超えて生かなきゃな。
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