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今回はサイファーについて考えてみる。彼は真の力を発揮しないまま死んでしまった『マトリックス』の重要な柱かもしれないのだ。

サイファーがなぜエージェントと取り引きをしたのか?
サイファーにとって真実とか信じられるモノとは、自ら感じ取れる快楽であったから。

では、なぜサイファーはモーフィアスから2つのカプセルの選択を迫られたとき赤を選んだのか?
あの時点のサイファーは、自分が感じている快楽も苦痛も偽物のような気がしていたから。

だから、記憶の消去をエージェント・スミスに依頼したサイファーは、再びモーフィアスから選択を迫られたら、同じく赤いカプセルを選ぶかもしれないのだ。サイファーは記憶を留めたまま仮想世界に帰った方が、快楽も苦痛も楽しめるんじゃないだろうか?あのフランス人(最古のプログラム人格であるメロビンジアン)のように。…今から思えば、メロビンジアンの役はサイファーがやった方が面白かったかも。そしてネオに美味い肉を勧めるとか。そして、仮想現実内で快楽を楽しんでいるはずなのに。エージェントとの協定を超えてネオに協力して来たら、かなり格好イイ。

この妄想の根拠は、キリストや釈迦が修行時に対決した悪魔から。これは内部の悪を乗り越えるコト、もっと短絡的にいえば内部に悪や弱さがあることが悟りへの条件である事を示している。(同時に、その悪が悟り状態を終わらせることにもなるんですけどね)キリストや釈迦は24時間年中無休で誘惑して来る内部からの悪に常勝(無化)するコツを掴んでいるようだけど、凡人は精神や肉体が絶好調の時に、様々な奇跡が重なって、やっと1、2勝できる瞬間があるかどうかって感じだ。

だから、ネオが救世主となるには、サイファーの誘惑に打ち勝つ場面があるべきなんだけどな〜。深みもでるし。

では、なぜウォシャウスキー兄弟はサイファーを殺して、ネオの宿敵をエージェント・スミスにしたんだろうか?サイファーとの戦いは言葉の戦い、概念の戦いになる。セリフ劇だ。スミスとの戦いだったら、戦国無双やドラゴンボールZばりのSFアクションに出来るから?しかし、一人の人間の中にある虚構を創る力と現実へ帰る力の葛藤を描けば、ドストエフスキーの現代版・未来版になり得たかもしれないのに。ドストエフスキーは今でも人々に求められているのは、我々が深いもの、重いモノを実際問題として求めているからだ。これは有効な商品にもなるのにな〜。

ヴァーチャルは悪である

『BD』では自らの望みが虚構世界を創りだすことに気付きが、現実世界に帰るためのステップになることを描いた。ドストエフスキーは個人の心の中の善が「立ち起こる」には、自分が悪や弱さそのものであることに気付く必要があることを描いた。

ここで教育改革国民会議の報告書に書かれた「ヴァーチャルは悪である」の言葉に正確性があることにハッと気付く。まさにヴァーチャルと悪は似た構造を持っているのだ。

現実が「立ち起こる」のを見るためには、自分の一部が(全部?)虚構そのものであることに気付く必要がある…ってなコトを言いたくなるなぁ〜。
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