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ネットで「パク・チャヌク監督の復讐三部作」について見て回っています。う〜ん面白い。映画本編を見るのと同じくらい面白い。私は『親切なクムジャさん』『オールド・ボーイ』『復讐者に憐れみを』の順番に好きなのですが、特に『親切なクムジャさん』に大きな価値を置いています。が、同じ復讐三部作好きでも、順位が逆の人が結構多いんですよ。一枚のCDアルバムの一番嫌いな曲が友達は一番好きで、一番好きな曲が友達は一番嫌いだったりするのに、2人ともアルバムは大絶賛という状況に似た感じ?

というわけで『親切なクムジャさん』が前二作よりも深い!というポイントを力説してみます。

★『復讐者に憐れみを』全体を俯瞰するマクロの視点。他者(姉や部下)がどんな苦しみの中で生活し、何を思っているのかは知ろうとしても知りきれるものではなく、最初から知ろうとしないのなら尚更です。そのうえ、この世界には事故だって起きます。障害を持って生まれるコトもあります。人の因果、人の縁は人智では把握仕切れるものではないのです。

★『オールドボーイ』登場人物を絞り、その宿業のキッカケをミクロの世界まで拡大して見る。「砂粒であれ岩の塊であれ水に沈む時は同じ」の砂粒への視点です。しかし、一粒の砂も見逃さずに生きるコトなどできません。

★ではどうすればいいのか?そこで『親切なクムジャさん』は「小さな罪には小さな罰を、大きな罪には大きな罰を」の肌理(きめ)細かさが登場します。クムジャさんがケーキ作りの天才であることは「女性的な計量能力の高さが要求される芸術」の象徴がケーキ作りだからです。「砂粒であれ岩の塊であれ水に沈む時は同じ」のようなドンブリ勘定では、この世の混沌を受け入れ、なおかつ秩序をもって暮らすコトなどできません。男性的な理屈や合理性でも、「幸せ」にはチト遠い。

パク・チャヌク監督は、復讐三部作の最後の主役であるクムジャさんを「復讐の連鎖を断ち切る人物」に設定しています。その条件として

 ●肉親を亡くしていない点で部外者であり
 ●部外者なのに、その敏感すぎる美意識から「命を賭ける部外者」になり
 ●罪と罰の計量を可能な限り考え抜く思考の粘りがあり
 ●戦術と優しさを兼ね揃え
 ●他の世界とも繋がっている(ケーキ職人であり娘をもつ家庭人)
 ●女性


クムジャさんは前二作の主人公たちよりも大分恵まれた位置にいます。前二作の主人公から言わせれば、クムジャさんは復讐の連鎖の外にいる第三者にすぎません。だからこそ日常にもっとも近いラストシーンを迎えるコトができるのですが、逆に復讐者になる動機も弱くなります。この動機の弱さをについて考えてみます。

映画前半、クムジャさんがキリスト教に触れる描写が続きます。この文章を書く前は、単に模範囚となって出所を早めるための手口としか見ていなかったのですが、物語の後半に遺族たちがクムジャさん特性のケーキを食べるシーンにも「天使」が登場する符号から、もう少し重要な意味を与えてみたくなりました。クムジャさんが復讐者になる動機が前二作に比べると弱いのに復讐者になるのは、クムジャさんの胸中の過剰な正義感、もっと言えば「地上のモラルから離れた公平感覚」から規定ると描写されています。その「美意識」や「贖罪」のイメージは獄中での聖書と祈りの日々から仕入れたのかもしれません。日本の社会システムでは犯罪者は「罰」すれば「更正」する、というニュアンスですが(武士の切腹も、贖罪というより、文字通り腹を割って身の潔白を証明するというニュアンスだったようです)韓国?…少なくてもクムジャさんは「罰」と「更正」の間に「贖罪」を挟みたがっていました。

復讐の連鎖を断ち切る「命を賭ける第三者」。これは『池袋ウェストゲートパーク』でカラーギャングの抗争を集結させるマコトや、腐海と人間との絆を修復する漫画版ナウシカなど特異な人間ですが、皆、粘り強く現状を観察し、ギリギリまで思考し、そして得た結論を実行できるキャラです。

私の目にもっとも焼き付いているシーンは、ペク先生の私刑直後のクムジャさんの般若の笑みです。ゾッとするほど……ゾッとする顔でした。般若とは仏教では智慧の意味でして(般若心経とかね)憤怒と慈悲が核融合を起こした知性の究極の姿であり、社会で知恵と呼ばれている範疇では括り切れないものです。『宮廷女官 チャングムの誓い(脚本キム・ヨンヒョン)』でも復讐と医道の両立というテーマが出てきます。私は復讐心が大きくなれば反比例的に人間の善の力は弱まるという単純なイメージしか持っていなかったのですが、キム・ヨンヒョン監督(チャングムの脚本家)もパク・チャヌク監督も、人間の器は憤怒や慈悲(の両立)によって拡大するイメージを持っているようです。

また悪玉の条件も厳しく

 ●同情の余地が描かれない完全悪であり
 ●弁明もさせてもらえず(さるぐつわ)
 ●子供がいないことがワザワザ言及されている。(復讐の連鎖が続かない)


また私刑の条件は

 ●話し合いと選択の余地(おォ民主主義ぽい)
 ●刑事が立ち合い(国家からの”御墨付き”を貰った感)
 ●報酬は貰わない(アンダーグラウンド勢力として確立させない。必殺仕事人ではない)


と、わざわざ近代国家の「体裁」を描きます。復讐三部作には社会的な振舞いをする人間を、ほとんど登場させてないのに。(監督の初期作品『JSA』では社会システムに圧殺される「個人」が描かれます)

このようにパク・チャヌク監督は、復讐の連鎖が立ち切られる条件を描いていますが、同時に、その条件がそろうのは復讐が始まったり連鎖するよりも稀なコトとも考えているようです。復讐を集結させる条件をそろえるよりも、復讐が芽生える前に除去するのが簡単だな。それしか出来ないし。復讐劇は映画や妄想の中だけで発生し終結すりゃイイ。

あと、ペク先生がクムジャさんの娘を殺さなかったのは何故か?これはクムジャさんの口からペク先生の素性が漏れるのを封じ続けるためでしょう。ですからクムジャさんが、復讐よりも先に娘に会いに行ったのは、単純な「一目だけでも会いたい!」だけでなく、ペク先生から完全に保護するためでしょう。このクムジャさんの娘の、母と一緒にいるために自らの首にナイフを突き付ける激情や三回謝れば許す数学性(クムジャさんもこの数学性に乗って三回だけ謝る)、復讐を疑問無く容認する様はまさにリトルクムジャさんです。クムジャさんのDNAか?はたまた人間の生の姿か?

多分、監督は社会性を取っ払えば、人間はやりたいことに命を賭けれて、非情に合理的で、自分に関わりのない事に対しては横槍なんか入れない生物なんだ、という世界観を持っているのようです。そして、その世界観が他者に破壊され、自分で修復される様に「劇性」を映画を撮っているのではないでしょうか?

最後にカメオ出演などのキャスティングの面白さについても。ペク先生が『オールドボーイ』では主役であったり、『復讐者に憐れみを』のソン・ガンホとシン・ハギュンがコンビで現れたりなどの演出は、単純にファンの心をくすぐる以上に「人生の立ち位置なんて解らないもの」という『復讐者に憐れみを』的な視点を与えてくれます。
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